旧軍戦史雑想ノート  航空戦史-陸軍編

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飛行第五一戦隊


【通称】
威第一八四二四

【飛行分科】
戦闘

【編成】
昭和19年4月28日 小月(山口県)

【機種】
一式戦闘機「隼」、四式戦闘機「疾風」

【最終所在地】
下館(茨城県)

【戦隊長】
中島凡夫  少佐 (50期) 昭和19年 4月~11月
池田忠雄  大尉 (53期) 昭和19年12月~20年8月

【飛行隊長】
池末幸彦  大尉 (54期) 昭和19年12月~20年8月

【第一中隊長】
西川 幾  大尉 (53期) 昭和19年 4月~10月
栗原六郎  中尉 (56期) 昭和19年12月~20年8月

【第二中隊長】
大淵俊雄  大尉 (54期) 昭和19年 5月~11月
宮田晃一  中尉 (56期) 昭和19年12月~20年8月

【第三中隊長】
山城三智王 大尉 (53期) 昭和19年 5月~ 8月
阿部利男  中尉 (55期) 昭和19年 8月~12月
藤本 繁  中尉 (56期) 昭和19年12月~20年8月

【整備隊長】
平松 勉  大尉 (54期) 昭和19年 4月~20年2月
西岡一英  大尉 (54期) 昭和20年 2月~ 8月


【所属】
第一航空軍(昭和19年4月~9月12日
第四航空軍(昭和19年9月13日~
第三〇戦闘飛行集団
第一六飛行団
 飛行団長:新藤 常右衛門中佐(36期) 昭和19年4月~

昭和19年4月28日
小月にて編成。同時に大阪で編成された飛行第五二戦隊とともに四式戦闘機装備の第一六飛行団を構成。
小月飛行場では飛行第四戦隊と同居で、混雑し訓練に不適当なため、工事中の山口県防府飛行場が概成するのを待った。

昭和19年6月15日
防府飛行場に移転。
操縦者の主力は飛行学校終了直後の航士56期、少飛12期、特操1期生で、高性能の四式戦を乗りこなせず事故が多発し、練度の向上には相当の時日を必要とした。

昭和19年6月16日
米陸軍ボーイングB29「スーパーフォートレス」四発重爆撃機による九州初来襲がある。

昭和19年7月8日
第2次来襲以後、少数機で迎撃戦に出動した。

昭和19年8月20日
北九州昼間空襲時に可動18機で迎撃、一部が会敵して2機を撃破した。

昭和19年9月13日
第一六飛行団は第一航空軍から第四航空軍に転属、フィリピン進出命令を受ける。

昭和19年9月29日
中島戦隊長以下27機が防府を出発。

昭和19年9月30日
第一中隊長:西川大尉指揮の12機が出発。
戦隊は新田原、沖縄、台湾を経由、途中の悪天候に悩まされた。

昭和19年10月6日
主力がルソン島マニラ地区デルカルメン飛行場に到着、先行していた飛行団主力に合流した。
坂内大尉を隊長とする第一六飛行団の留守隊(52FR:城本直晴准尉等)は、防府飛行場に残留して、幹候8、9期、特操を主体とする未熟練操縦者の練成を継続した。

昭和19年10月9日
デルカルメン北方6㌔にあるポーラック飛行場に移動。

昭和19年10月13日
海軍機の米機動部隊攻撃を掩護するため、ルソン島北部のツゲガラオ飛行場に前進し出動。
五一戦隊は8機が随伴して任務を遂行、同日中にポーラック飛行場に帰還した。

昭和19年10月14日
後発の西川隊15機は、屏東で米艦載機群と空戦の後、ポーラック飛行場に到着した。

昭和19年10月15日
「マニラ地区米艦載機迎撃戦」
午前 飛行団は前日から空襲を予測、五一、五二戦隊が交代で哨戒を出していたが、五一戦隊は空戦の好機を逃し、川野、三石両中尉がそれぞれ1機を撃墜したに止どまった。
【16FB戦果】
撃墜:10機[51FR=2/52FR=8]
【個人戦果】
51FR 川野雅章 中尉(航士56期)  ※撃墜:グラマンF6F戦闘機1機
51FR 三石研三 中尉(航士56期)  ※撃墜:グラマンF6F戦闘機1機
52FR 沢山義隆 大尉(航士52期)  ※撃墜:1機
52FR 高橋武夫 曹長(少飛5期)   ※撃墜:1機
【51FR被害】
【戦死者】
51FR 川上兼雄 伍長(少飛12期)  *クラーク

同日
「機動部隊攻撃」
午後 海軍の攻撃隊の掩護のため、進藤第一六飛行団長の指揮で、四式戦16機、一式戦13機、三式戦22機各飛行団の計74機が比島東方洋上に進攻した。
五一戦隊は目標直前でグラマンF6F戦闘機の大群に阻止され、空戦ののち帰還したが、西川大尉等は屏東に着陸し、翌日帰還した。
高田節穂軍曹(少飛10期)機は、敵空母の甲板を機銃掃射した。
【16FB戦果】
撃墜 :15機
【被害】
未帰還:7機
【51FR被害】
未帰還:2機
【戦死者】
[調査未完]

昭和19年10月18日
「クラーク地区迎撃戦」
艦載機を迎撃したが、情報の遅れから不利な戦闘となり、終日の激戦となった。
三石中尉は2機撃墜ののち包囲され、その編隊長機に体当りし、無傷で落下傘降下した。
大淵大尉、阿部中尉等6名が落下傘降下、林義男少尉、川村秀喜曹長等が被弾不時着した。
【16FB戦果】

【51FR戦果】
撃墜:グラマンF6F戦闘機13機
【個人戦果】
51FR 三石研三 中尉(航士56期)  ※撃墜・グラマンF6F戦闘機3機
【51FR被害】
自爆:3機 体当り1機 落下傘降下:6機 被弾不時着:2?機
【戦死者】
51FR 伊藤光裕 中尉(航士56期)  *マニラ
51FR 大沢睦郎 伍長(少飛12期)  *マニラ
51FR 藤岡 泉 伍長(少飛12期)  *マニラ
【体当り】
51FR 三石研三 中尉(航士56期)
【落下傘降下】
51FR 大淵俊雄 大尉(航士54期)  第2中隊長
51FR 阿部利男 中尉(航士55期)  第3中隊長
その他4名
【被弾不時着】
51FR 林 義男 少尉(少候24期)
51FR 川村秀喜 曹長

昭和19年10月19日以降
散発的に空襲を受け、迎撃に出動したが、連日の空戦で機材の損耗が激しく、第1次レイテ総攻撃に参加するため、ネグロス島進出を命じられたが、可動機が少なく、中島戦隊長はデング熱で入院中だった。

昭和19年10月23日
可動機:四式戦15機[16FB:51FR:7/52FR:8]

昭和19年10月24日
朝 五一戦隊は西川大尉の指揮で五二戦隊とともに[16FB:約10機]レイテに進攻したが会敵せず、上陸地点を銃撃、そのまま前進基地のサラビアへ着陸。

同日午後
「レイテ攻撃」
[調査未完、詳細不明]
【16FB被害】
【戦死者】
51FR 西川 幾 大尉(航士53期)  *レイテ 第1中隊長
52FR 小川久男 大尉(航士54期)  *レイテ 第2中隊長

昭和19年10月25日
「レイテ攻撃」
【16FB被害】
【戦死者】
52FR 小里信介 中尉(航士56期)  *レイテ
10月24~25日のレイテ攻撃で五一戦隊は、西川大尉等3名が未帰還となった。

昭和19年10月26日
中島戦隊長が復帰、連日、レイテ制空、爆撃掩護、船団直衛、艦船攻撃等に当たり、1日4回以上、8時間以上の出動で操縦員の疲労は極限まで達していた。

同日
「タクロバン攻撃」
夕方 タクロバン飛行場に集結していた在地の中小型機に対して、10数機でタ弾攻撃を行い多数撃破した。
【16FB被害】
未帰還:7機[51FR:3/52FR:4]
【戦死者】
51FR 有安秀夫 少尉(少飛4期)   *レイテ
51FR 椎名 保 伍長(少飛12期)  *レイテ
52FR 山崎 宏 大尉(航士54期)  *タクロバン
52FR 池田一郎 中尉(航士56期)  *タクロバン

昭和19年10月30日
サラビア基地は、モロタイ島よりのコンソリデーテッドB24「リベレーター」四発重爆撃機による初空襲を受ける。

昭和19年11月1日
「サラビア地区B24重爆撃機迎撃」
陸軍第一師団の輸送掩護に出動する際、レイテ島より随伴してきたロッキードP38「ライトニング」双発戦闘機とB24重爆撃機の戦爆連合がサラビア飛行場に来襲し、これを迎撃。
中島戦隊長の2機撃墜の他、タ弾で数機を撃墜破した。
【51FR戦果】
撃墜破:数機
【個人戦果】
51FR 中島凡夫 少佐(航士50期)  *撃墜・B24重爆撃機2機

昭和19年11月2日
ロッキードP38戦闘機による奇襲を受け、地上で12機を失った。

昭和19年11月3日
「サラビア地区迎撃」
常深曹長が単機にてロッキードP38双発戦闘機を2機撃墜。
富永軍司令官より賞詞を受け、即日准尉に進級した。
【51FR戦果】
撃墜:P38戦闘機2機
【個人戦果】
51FR 常深不二夫 曹長(下士89期) *撃墜・ロッキードP38戦闘機2機

昭和19年11月5日
可動機1機

昭和19年11月6日
可動機4機、操縦者8名。

昭和19年11月8日
「サラビア地区B24重爆撃機迎撃」
阿部中尉がタ弾により一挙にB24を2機撃墜、1機撃破した。
【51FR戦果】
撃墜:B24爆撃機
【個人戦果】
51FR 阿部利男  中尉(航士55期) *撃墜・B24爆撃機2機 撃破B24
                    爆撃機1機

昭和19年11月10日
[調査未完、詳細不明]
【51FR被害】
不明
【戦死者】
51FR 小田切進  曹長(下士90期) *レイテ
51FR 川原義彦  伍長(少飛11期) *レイテ

昭和19年11月11日
【51FR被害】
不明
【戦死者】
51FR 三石研三  中尉(航士56期) *レイテ

昭和19年11月12日
「船団掩護」
[調査未完、詳細不明]

昭和19年11月13日
朝 ポーラックへ後退することになり、中島戦隊長、大淵大尉等5名の生存操縦者が、沢山五二戦隊長等の生き残りと共に輸送機で出発したが到着せず、米艦載機に撃墜されたものと判断された。
【戦死者】
51FR 長中島凡夫 少佐(航士50期) *マニラ沖 輸送機上 戦隊長
51FR 大淵俊雄  大尉(航士54期) *マニラ沖 輸送機上 第2中隊長
51FR 大橋義男  軍曹(少飛9期)  *マニラ沖 輸送機上
51FR 徳岡一美  軍曹(少飛10期) *マニラ沖 輸送機上
51FR 坂本正秀  軍曹(少飛10期) *マニラ沖 輸送機上
52FR 長沢山義隆 大尉(航士52期) *マニラ沖 輸送機上 戦隊長
52FR 高橋武夫  准尉(少飛5期)  *マニラ沖 輸送機上 第3中隊
                    総撃墜数:13機以上
52FR 成沢 務  曹長(下士91期) *マニラ沖 輸送機上
52FR 樅山正直  軍曹(下士91期) *マニラ沖 輸送機上
52FR 久川一久  軍曹(少飛10期) *マニラ沖 輸送機上
阿部中尉以下の生存操縦者は、19日までにポーラックに帰還し、数回出動した。

昭和19年11月21日付 大陸指で第一六飛行団に内地帰還命令が下り、五二戦隊10名の生存操縦者は11月末に内地に帰り、留守部隊と共に茨城県下館飛行場に移って、2か月の予定で戦力回復に入った。
戦隊主力のネグロス島進出に先だって、新機受領のため、五二戦隊の緒方中尉とともに防府に帰還した林 義雄少尉(少候24期)は、新機14機と特操1期12名を指揮してフィリピンへ復帰したが、すでに内地帰還命令が出ていたので、反転し下館で合流した。
ネグロス島に残留した岩崎中尉以下52名の地上勤務者は、第六航空地区司令官の隷下に入って陸上戦闘に移行し、多数の戦死者を出したのち、敗戦を迎えた。

【飛行第五一戦隊のフィリピン方面での戦果】[筆者注:調査未完]
撃墜  :グラマンF6F戦闘機15機以上
撃墜  :ロッキードP38双発戦闘機2機
撃墜  :B24重爆撃機4機以上
撃破  :B24重爆撃機1機以上
地上撃破:多数

【個人戦果】
51FR 中島凡夫  少佐(航士50期) *撃墜・B24重爆撃機2機
51FR 阿部利男  中尉(航士55期) *撃墜・B24爆撃機2機
                    撃破B24爆撃機1機
51FR 川野雅章  中尉(航士56期) *撃墜:グラマンF6F戦闘機1機
51FR 三石研三  中尉(航士56期) *撃墜:グラマンF6F戦闘機4機
51FR 常深不二夫 曹長(下士89期) *撃墜・ロッキードP38戦闘機2機



【参考文献】
主要参考文献 を参照下さい。

[筆者注:全般的に資料不足、調査未完につき、今後大幅に加筆、改訂を予定しております]
初稿  2005-04-20
第2稿 2005-11-05 一部加筆



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