旧軍戦史雑想ノート  航空戦史-陸軍編

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飛行第二六戦隊


【通称号】
誠第八三九九

【飛行分科】
戦闘、軽爆

【編成】
昭和17年10月2日[筆者注:10日説もあり]

【編成地】
北満州・チチハル近傍の衙門屯
戦闘機と軽爆撃機の混成戦隊

【機種】
九七式戦闘機、九七式軽爆撃機、九九式襲撃機、一式戦闘機、二式単座戦闘機

【最終所在地】
台東(台湾)

【戦隊長】
島谷 亨  中佐 (38期) 17年10月~18年 8月
大田鉚吉  中佐 (36期) 18年 8月~19年 5月
坂口唯雄  少佐 (47期) 19年 5月~19年11月
永田良平  少佐 (52期) 19年12月~敗戦
【飛行隊長】
高野国彦  大尉 (52期) 19年 3月~12月
山口 幹  大尉 (53期) 20年 1月~敗戦
【第一中隊長】
黒川直輔  大尉 (51期) 17年10月~19年 3月
桑畑幸治  大尉 (53期) 19年 3月~20年 1月
塚越朝紀  大尉 (55期) 20年 1月~敗戦
【第二中隊長】
坂内士郎  中尉 (52期) 17年10月~18年10月
吉田健起  中尉 (53期) 18年10月~19年 1月
山口 幹  大尉 (53期) 19年 2月~敗戦
【第三中隊長】
高野国彦  大尉 (53期) 17年10月~19年12月
梅岡信明  大尉 (55期) 19年12月~20年 7月
【整備隊長】
西岡勝憲  大尉 (53期) 19年 8月~敗戦

第一中隊(戦闘)は飛行第七七戦隊よりの人員を、第二、第三中隊(軽爆)は飛行第二七戦隊よりの人員を基幹として、九七式戦闘機、九七式軽爆撃機を使用した。

昭和17年11月3日
編成完結と同時に、比島へ進出のため衙門屯を出発。
奉天、北京、南京、上海、屏東を経由。
飛行場大隊等の地上勤務部隊は、朝鮮・釜山を経由して輸送船により出港することになった。

昭和17年11月20日
フィリピン・ルソン島クラーク基地に到着。
第一中隊は、マニラ郊外のサブラン飛行場に移動、練成及び比島各地のゲリラ掃蕩作戦に協力。

昭和17年11月24日頃
地上勤務部隊はクラーク基地に到着した。

昭和18年初夏
第二、第三中隊は、九九式軽爆撃機から一式戦Ⅱ型に機種改変した。

昭和18年9月上旬
第一中隊は内地に帰還。
明野にて一式戦闘機Ⅱ型に機種改変を進めた。

昭和18年10月中旬
第一中隊は比島に帰還。

昭和18年10月18日
第一中隊は、パレンバン防空のため、クラークを出発。

昭和18年10月下旬
パレンバンに到着。
油田地帯の防空の当たる(可動8機)。
敵の空襲は無かったので、訓練に専念した。

昭和18年10月22~24日
本部と第二、第三中隊の一式戦闘機Ⅱ型18機(28機?)がクラークを出発。
セブ島、ニューギニア西部のバボ、ワクデ島等を経由し、東部ニューギニアに向かった。

昭和18年11月初頭
第二中隊はブーツ飛行場、第三中隊12機はアイタペ飛行場に展開、第八飛行師団の隷下となり、白城子教導飛行団の指揮下に入る。
ダンピール海峡の夜間哨戒、敵飛行場や敵陣地等に対する少数機による薄暮、夜間攻撃を行っていたが、逐次戦力が消耗した。

第三中隊
 高田   大尉
 吉田   中尉
 進藤   少尉
 水野   曹長
 原口梧郎 曹長
 若宮   軍曹

第三中隊はアイタペ飛行場に進出後すぐに約20機のP-38戦闘機、P-40戦闘機の銃撃により2機が炎上した。
2日後、B-25爆撃機12機の落下傘爆弾とP-38戦闘機約20機の銃撃により7機を喪失。
その後、ホーランジアの補給廠で新機を3機受領、可動兵力が6機となった。

昭和19年1月27日付
26FRは、スマトラの第九飛行師団に編入。

昭和19年2月中旬
本隊は比島を経てシンガポールに終結。

昭和19年2月14日
第一中隊の塚越朝紀中尉(航士55期)以下6機が、北仏印方面の防空のためパレンバンを出発。

昭和19年2月19日
北仏印のハノイに進出。
約20日間にわたり同方面の防空に当たるが、2~3度カーチスP‐40戦闘機が偵察に来たのみだった。

昭和19年2月29日
一式戦5機がハノイを出撃。
バンコク、マウビを経由して、インド洋のアンダマン諸島ポートブレアに向かう。

昭和19年3月4日
塚越隊が、ポートブレアに到着。
船団掩護とセイロンより来襲するコンソリデーテッドB‐24「リベレーター」四発重爆撃機や「モスキート」双発戦闘爆撃機等の迎撃を行った。

3月4日~4月18日までに2~3回の迎撃戦を行い、B‐24:3機、モスキート:1機を撃墜した。

昭和19年3月30日付
26FR本隊は、飛行隊編成に改変する際に、戦闘戦隊に改編された。

昭和19年4月14日
「船団直衛/第一中隊」
護衛中の石川清雄曹長が、「松川丸」(陸軍兵1,300名搭乗)に対して、潜水艦が発射した魚雷に体当たり、戦死した。
石川曹長は個人感状、二階級特進の栄誉を受けた。

昭和19年4月18日
塚越隊は、シンガポールに引き上げた。

昭和19年4月末~5月
本隊は、スマトラ島のゲルンバン飛行場に移駐、九九式軽爆から一式戦闘機Ⅱ型へ機種改変と未習教育を行った。

昭和19年6月
戦隊はパレンバン南方90キロにある、べトン飛行場に進出。
パレンバン防空任務と跳飛爆撃の訓練を進めた。

昭和19年8月末
保有機:44機、操縦者:36名。

昭和19年10月5日
第四航空軍に編入され、比島方面転用が発令された。

昭和19年10月10日
坂口戦隊長以下22機〈戦闘隊出身と襲撃隊出身の優秀者を選抜した〉がマニラに向かう。
高野大尉以下の残留隊は、べトンにて、特操を主体とする新参者の練成に当たるとともに、パレンバンの防空任務についた。

昭和19年10月11日
マニラ・サブラン飛行場に到着。

昭和19年10月15日
「マニラ地区艦載機迎撃戦」
26FRと204FR(マニラ・二ルソン飛行場)が、来襲した米艦載機群〔米海軍第38・4任務群〕をマニラ湾上空で迎撃した。
坂口戦隊長は被弾、不時着した。
【戦果】
撃墜:6機(うち不確実2機)
【被害】
未帰還:3機
被弾不時着:1機
【戦死者】
水井忠志  曹長 (下士86期) *ラグナ湖
伊藤 洋  軍曹 (予下士6期) *ラグナ湖
森 松雄  軍曹 (少飛10期) *ラグナ湖

昭和19年10月18日
「マニラ地区艦載機迎撃戦」
早朝 戦隊は全力の一式戦18機でネグロス島に進出予定であったが、艦載機の来襲により迎撃戦を展開。
【戦果】
撃墜:7機(うち不確実2機)
【被害】
自爆・未帰還:3機
被弾:4機
【戦死者】
前川茂裕  曹長 (下士86期) *マニラ 
深見 勉  軍曹 (少飛10期) *マニラ
石川清文  伍長 (少飛11期) *マニラ

同日
夕方 坂口戦隊長以下8機はネグロス島に向かうが、悪天候による不時着や引返機が5機出て、ファブリカ飛行場に到着したのは戦隊長以下3機のみであった。

昭和19年10月19日以降
逐次、後続機が到着したが、可動戦力は常時一桁の機数にしかならず、間も無く在ネグロス島の一式戦装備の戦隊と合同して出撃した。

昭和19年10月20日
「レイテ湾攻撃」
未明 戦隊長と和曹長の2機が爆装して出撃。

昭和19年10月21日
「レイテ湾攻撃」
野口義則軍曹が単機で出撃。

同日
【戦死者】
中村 勇  伍長 (少飛11期) *ネグロス

昭和19年10月24日
「第一次レイテ航空総攻撃」
和曹長、上西曹長の2機が出撃したのみ。
【被害】
未帰還:2機
【戦死者】
和 道隆  曹長 (下士82期) *レイテ
上西知恵三郎曹長 (下士89期) *レイテ

昭和19年10月25日
「レイテ湾攻撃」
野口軍曹が大型輸送船1隻に命中弾を与え、別の輸送船に体当たり、自爆した。
これにより、野口軍曹は四航軍司令官より個人感状を受ける(アンダマン防空戦では賞詞を受けている)。
【戦死者】
野口義憲  軍曹 (少飛6期)  *レイテ 船団体当たり 個人感状授与

昭和19年10月26日
「レイテ攻撃」
【戦死者】
内田 連  軍曹 (少飛10期) *レイテ

ネグロス島進出より月末まで連日、少数の一式戦に爆装してレイテ湾の艦船及び上陸地点の攻撃を行った。この間の被害は、自爆・未帰還:5機、大・中破:10機だった。

昭和19年10月末~11月1日
レイテ輸送(多号作戦)のため、マニラに一時帰還した。

昭和19年10月31日
20FRとともにレガスピーに進出。船団掩護を行う。

昭和19年11月1日
ファブリカに再進出。
米軍の奇襲により3機を在地で喪失した。

昭和19年11月2日
「レイテ攻撃」
各戦隊と協同
【戦死者】
名和藤雄  中尉 (航士55期) *レイテ

昭和19年11月3日
「第二次夜間レイテ攻撃」
坂口戦隊長編隊と塚越中尉編隊が出撃。
戦隊長と斎藤軍曹(204FR)の2機が未帰還。
【戦死者】
坂口唯雄  少佐 (陸士47期) *レイテ

昭和19年11月4日
26FRは、204FR戦隊長の指揮下に入り、船団掩護、タクロバン攻撃、防空戦を続行した。

昭和19年11月6日
【戦死者】
藤岡澄夫  伍長 (少飛11期) *ネグロス

昭和19年11月12日付
大陸指により、戦力回復のため、明野への帰還を下令させた。

昭和19年11月16日以降
山口大尉、桑畑大尉、塚越中尉、坂本隆茂少尉(特操)と下士官3名の生存者は輸送機でマニラに後退、12月上旬にクラークを出発、内地に帰還した。
1ヶ月に及ぶ比島航空戦において、操縦者の戦死は15名だった。

同日付
四航軍司令官により、戦隊に対し感状が授与され、21日付で坂口戦隊長と野口軍曹の2名が個人感状を受けた。



昭和20年1月16日付
第三航空軍に編入。南方(シンガポール)への転用が決まった。

昭和20年1月下旬
戦隊長に永田良平少佐が着任。
戦隊は明野で戦力回復を入り、一式戦闘機Ⅲ型に機種改編をおこなった。

昭和20年1月24日
「パレンバン英艦載機迎撃戦/べトン残留隊」
べトンに残留中の新藤錬三中尉(少候21期)等は、英機動部隊の艦載機を可動5~6機で迎撃した。
     新藤錬三中尉  *撃墜:艦爆4機 F4U戦闘機1機
【戦果】
撃墜:数機
【被害】
損失:3機
【戦死者】
岩本 尚  曹長 (下士84期) *パレンバン
岡本利助  軍曹 (少飛10期) *パレンバン
安本豊三  軍曹 (少飛11期) *パレンバン 

昭和20年1月25日
「特別攻撃隊・七生翔寿隊/べトン残留隊」
26FRで編成された特攻隊「七生翔寿隊」10機が、機動部隊攻撃のため出撃したが、悪天候のため引き返した。

昭和20年1月29日
「特別攻撃隊・七生翔寿隊/べトン残留隊」
特攻隊「七生翔寿隊」が、機動部隊攻撃のため出撃したが、機動部隊を発見出来なかった。

昭和20年1月31日
先発隊として、戦隊長以下10機が明野を出発。

昭和20年2月5日
山口飛行隊長以下3機が明野を出発。

上記の本隊は、沖縄、台湾、広東、ツーランを経由しつつシンガポールへ向かうが、新装備の一式戦Ⅲ型がテスト飛行を省略した粗製機が多かったため、途中で故障や落伍が続発したため進出は難渋した。

昭和20年3月4日
「フィリピンにおける地上戦死」
【戦死者】
木内 稔  大尉 (航士55期) *ルソン島

昭和20年3月11日
後発隊の、塚越大尉以下9機は、明野を出発。上海経由で台北へ到着。
沖縄戦が開始されたので待機を命じられたが、3月25日、第八飛行師団(誠部隊)に編入され、誠第二六戦隊と呼称された。同じく台湾に待機中だった飛行隊長の山口 幹大尉が臨時戦隊長に指名された。

昭和20年3月22日
戦隊長編隊の3機が、シンガポールに到着。
べトン残留隊と合流し、カラン飛行場に展開、防空任務を行うが、時々来襲するボーイングB‐29四発重爆撃機の迎撃は困難だった。
また、シンガポール~サイゴン間の船団掩護を担当、コンソリデーテッドB‐24四発重爆撃機等を迎撃、数機を撃墜した。
一式戦Ⅲ型は、大部分が使用不能となったので、三航軍よりⅡ型約20機、二式単座戦闘機4機の補給を受けた。

昭和20年4月8日
台北の誠第二六戦隊は、花蓮港に移駐し、特攻掩護に当たることになった。

昭和20年6月26日付
大陸命で26FRは、第九飛行師団隷下より、第八飛行師団に編入された。

昭和20年6月30日
戦隊はシンガポールを出発。

昭和20年7月6日
サイゴン、広東を経由し、屏東に到着。
誠二六戦隊と合流し、台東飛行場に集結、展開した。

特攻2隊を編成し、沖縄方面艦船攻撃に出撃した。

昭和20年8月10日
塚越大尉以下が特攻出撃したが、引き返す。

本土決戦のため、熊本県菊池飛行場への移動準備中に敗戦を迎える。
可動機数:約20機

【個人戦果】
新藤錬三  中尉 (少候21期) *撃墜:艦爆4機 F4U戦闘機1機
野口義憲  准尉 (少飛6期)  *総撃墜数:6機(モスキート1機/艦載機3機/
                  B‐24重爆2機)



【参考文献】
主要参考文献 を参照下さい。

筆者注:調査未完のため、今後、大幅に加筆・改訂を予定しております

2005-07-29 (1)初稿
2005-07-30 (1)第2稿 比島航空戦を加筆
2005-08-01 (2)初稿
2005-11-03 (1)第3稿 一部修正
2005-11-03 (2)第2稿 一部修正
2010-09-01 (1)第4稿 加筆
2011-02-26 (1)と(2)を合体



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